□ ○○博士を悼む

本日ここに市民多数ご参列の上、おごそかに名誉市民永井隆博士の市葬を挙行せらるるにあたり、慎みて告別のことばを申し上げます。
博士は昭和××年、長崎医科大学を卒業、同××年同大学物理療法科助教授に就任、レントゲンを担当せられましたが、戦時下の大学は研究もほとんど不可能となってまいり、とぼしい時間と資材の中で不眠不休、レントゲン作業をつづけられた博士は、ついに今日の医学では不治といわれている白血病にかかられたのであります。
じらい博士は自己にのこされた余命を、人体組織の微細構造の"原子物理学的研究"の完成に没頭され、あらゆる資料を集積されましたが、昭和二十年八月九日、運命の原子爆弾は浦上天主堂上空にさくれつし、数万の長崎市民の霊とともに、博士ひっせいの研究資料も烏有(うゆう)に帰したのであります。
このとき博士は右半身に爆風のため、ガラス傷をうけ、頭部の動脈切断による多量の出血にもかかわらず救援隊員を督励し、昼夜の別なく数百名にのぼる患者を治療し、医師としての職責を全うし、かたわら無惨な廃嘘と化した浦上の復興作業に挺身献身されたのであります。しかも、この原爆により最愛の夫人を失い、家を焼かれ、博士自身放射能による再起不能の原子病患者となられました。
人類最大の不幸の場に立って、博士が実践された行為は実に神にもたとうべき崇高なものでありました。
博士のけいけんなカトリックの信仰は、その生命を奇蹟的にながらえたばかりでなく、原爆の非惨な境遇の中にあって、かえって生命というもののかがやかしさ、力強さを実践されたのであります。
原爆に倒れられてからの六年間、いくたびか、危機をつたえられた病床から「原爆病概論」が口述され、「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」「この子をのこして」など、不滅の愛に満ちた著書が上梓され、戦災者や敗戦後のみたされない人々の心に、愛と希望の灯をかかげたのであります。
原爆のもとでは、あまりにも、もろくはかない人間の生命む大切にまもりつづけること、それが平和への愛であり、博士が生命をかけて実現されようとした悲願でありました。

かかるとき博士を失ったことは、かけがえのない痛恨事でありました。博士を失った如己堂のごとく、がらんどうとなった長崎県民の心をみたすものは、おのれのごとく他を愛せよという、愛と平和への実践以外にはありません。
いまや幽明境をことにして、ふたたび博士の愛に満ちたまなざしに接するすべはありませんが、博士が残された数々の功績は、白バラのごとく永遠に、人類の胸に消えることなく、愛と平和をもたらすものでありましょう。"白バラの花よりにおいたつごとく"願わくば、もって瞑せられんことを。


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