郷土の偉人 (第五十八回)

百鬼夜行

 上陸を断念して、シドニー反転を告げたのが三月十四日夜。直ちに船首を回転させる作業が行われたが、これがまた大変であった。

エンジンが十八馬力と小さいから、船体をバックさせるわけにもいかない。やっと堅氷を砕きながら船首を風下の方に向けて窮地を脱出した。全く命拾いの感があった。

反転した開南丸がシドニーに姿をあらわすのは五月一日であるが、その間四十七日の航海は、なんとも暗い修羅場のような航海となった。南極上陸という行動品がある間、隊員たちほその一点で秩序が保たれていたが、それがなくなったとたん、緊張が一気に弛緩した・…‥。
ただでさえ個性のきわだつ寄せ集めの集団である。目的喪失と同時に、鬱屈した不平不満が噴出する。それもまだ危険な氷海を航行中は緊張によって抑えられていたが、氷海域を脱して単調な航海がつづくようになると、さまざまなトラブルが起きてきた。
その一因となったのが矗自身であったという話はなんとも皮肉である。矗は上陸に失敗してギクシャクしてきた隊員を集めて説教したつもりであったが、これが逆に作用したのである。
 書記長の多田恵一はその著書『南極探険私録』にこう書いている。
「白瀬氏ほ、軍隊当時からの習慣と見えて、命令を乱発するくせがある。隊員の一挙手一投足にも終始干渉するので、部下の不平不満が破裂し、両者の仲をとりもつ予の苦労もなかなかだった」
 こうしたこともあるいほその一因であろうか。じつは、ここにまことに陰惨な出来事が起きたとされている。
 それは「白瀬隊長毒殺計画(l)である。このおそろしい計画が本当にあったかどうか確認することはできない。誰もそのことについて書いていないし、また証拠となるようなものも残っていない。ただ伝聞として、二人の話が残っている。
 その一人は、私の伯母佐々木ヤスであり、私がその伯母から直接聞いた話のなかにそれがあった。
「南極(伯母は矗のことをこう呼んでいた)が航海中、大変な日に会ったことがある。南極は部下から暗殺されかかった。それを山辺、花守の両隊員に助けられたらしい」
 この話を聞いたときの私の衝撃は大きかった。私があまりにショックを受けた様子に驚いたのか、その後、伯母は南極〃について私に語らなくなったのである。
 そういえば、私自身、思い当たらないこともない。矗夫妻が太平洋戦争の末期、金浦の浄蓮寺に疎開していた当時、私はまだ国民学校の五年生から六年生にかけてだったが、新座敷に住む南極のおじさん〃夫妻に、母のいいつけでよくお盆にのせたお菓子やお餅などを持っていかされた。あるとき新座敷の近くまで来ると、お座敷の話し声がぴたりと止んだ。新座敷にはこのとき祖父の知行と伯母のヤスも同席していた。
 私は子ども心にもそれは極秘の話であり、立ち入ってほならないことのように思われた。だから、そこからわざとパタパタと足音を立て、お盆を届けたのであった。そのとき、あるいはそんな話が交わされていたのかもしれない……。
 この話は、昭和二十六年九月二日号の「週刊朝日」に矗の二女タケコが書いた手記のなかにもある。
つまり、矗の食事のなかに毒薬を入れたのを、犬係の山辺安之助、花守信吉の二人が見つけて、「隊長、メシ食うな。オレが持って来る握り飯だけ食え」とそっと知らせてくれたというのである。
 もう一人の証言は、矗の最晩年に交際のあった中日新聞の伊藤記者が、矗自身から聞いた話ということで、昭和三十二年十二月五日発行の「日本週報」に「危うく毒殺されそうになった‥…」という矗の言葉を伝えている。しかし、証拠は何もない。
タケコの手記によれば、「犯人は、計画が露見したと思い、手をついて謝り……」とあるが、それも事実かどうかを裏付けるものは何もない。
いずれが真相かはわからないが、南極への上陸を断念して、いったん反転を決断してからの航海のこの時期、矗もふくめて隊員も船員もすべて、開南丸のなかほ一種の異常心理≠ノあったことほ想像に難くない……。
それだけでない。船内のトラブルは、シドニー入港間際になって、もう一つ深刻な事態を生む。それは、多田書記長の著書によれば、シドニー到着の際、船長と丹野(一等運転士)のある手落ち≠ゥら隊員一同が大いに憤慨し、ついに両氏の排斥問題(2)が持ち上った」とある。
 そのある手落ち″が何であるかは書いていないし、また他の記録にもないので証明のしょうがないが、これはきわめて深刻な事態となったようである(多田はそのため、シドニー着後、わざわざ一時帰国して、大隈後援会長にこの間題を提示し、その裁決を仰いでいる)。
 三月十四日に南緯七四度六分から反転してシドニーに入港するまでの四十七日間は、こうした大小のトラブルが絶え間なくつづいたようで、それだけでも隊員はすっかり心身をすりへらしたことだろう。
 その証拠に、それまで全く病人が出なかった開南丸では病人が続出した。頭痛、消化不良、脚気などが頻発する。被服係の吉野義忠などは胃潰瘍に黄疸を併発して苦しんだ(しかし、シドニーに入港して陸上生活に移るとケロリと治ってしまった)。
 もちろん、矗をはじめ船長たち幹部はこの状態を野放しにしていたわけでない。船内宥和のために、船内雑誌「南潮」(四六判・十六頁)を毎月三回、三のつく日に発刊することにした。編集には多田書記長、三井所衛生部長、武田学術部長らが当った。その創刊号に矗の俳句が載っている。
  甲板に足の爪切る長閑かな
  暴風雨(あらし)やんで(ひき)(いぬ)人に馴れている
 ところがこの犬は、三月十五日に一頭、二十七日にさらに一頭死んで、ついにタローという犬が一頭だけ残るのみとなったのだった。
 注(1)「白瀬隊長毒殺計画」はいったん南極上陸を断念して開南丸が反転、シドニーへ戻る航海中の出来事とされているが、第七章「大航海」においても「白瀬を殺して日本へ帰ろう」という不穏な動きがあったようである。横浜市の神部健之助氏は、帰国後の蕗が探険費用の借金の返済のために横浜市菊名の自宅を売りに出した際に買い受けて下さった方である。その際に、神部氏は白瀬の護身用の鎧兜を譲り受けたが、彼によれば、探険隊が南極に向かう途中、赤道付近で開南丸が動かなくなり、猛烈な暑さが耐英訓練を積んだ隊員にはこたえたらしく、仲間を誘った者がいたという。この陰謀を聞いた一人が矗に忠告し、それ以来、矗はその鎧通を肌身離さずに持ち、警戒したという。「隊員は厳選したのに、なかには不心得者もいるもんだ」と矗は神部氏に語ったという話である(朝日新聞横浜版・昭和五十二年二月十七日付)。ちなみにこの鎧通は現在、国立極地研究所に保存されている。
 (2)野村船長と丹野一等運転士の二人の排斥問題についてほ、両人が「品川出帆以来今迄陸上隊員一同と対立・…:」という大隈重信宛の矗の書簡が保存されているが、「隊員一同両人に対し不信任の決議をなし、両人更迭の義」をとりあえず電報で指導を乞い、詳細は多田書記長と野村船長が同行して日光丸で帰国した際に事情を聞いてほしいという旨が書かれている。私見によれば、航海や船舶の知識に薄い陸上隊員に野村船長をはじめとする船員らほとても手を焼いたと思われる。
  野村船長らの、あくまでも探険を成功に導くための航海中の心のくだきを理解しなければいけないだろう。後援会長としての大隈の裁断は「今はそんな内輪もめをしている場合ではない」と陸上隊の決議を却下している。
出典:白瀬京子著「雪原(ゆきはら)へ行く」;わたしの白瀬 矗